大学南校

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大学南校(だいがくなんこう)は明治初期の政府所轄の洋学校である。現在の東京大学の前身のひとつである。

経緯[編集]

明治2年(1969)年 、明治政府は開成学校、旧幕府の昌平黌医学所を合併して、大学校とした。次いで同年12月大学と改称し、開成学校を大学南校とした。 本郷湯島にあった大学本校の南にあたる神田一ッ橋に位置していたためである。 神田一ツ橋(錦町)の旧開成所跡に設置され、総合大学の形態が整備された。 明治3年2月に制定された「大学南校規則」では法,理,文の3科をおき、教頭には開成学校時代からの G.フルベッキが,また教師にも多数の外人教師が任用された。生徒は 1000人を定員とし,正則,変則の2種を普通,専門の2級に分けた。生徒の入学年齢を16歳以上とし、正則と変則に分け、正則生は外人教師により、変則生は日本人教官から教授をうけることとした。明治4年7月、各藩からの貢進生を募集(259藩より300余名)し、海外への官費留学生派遣(日本最初の欧米留学生は南校からの派遣である)などを行った。 明治3年7月大学本校が閉鎖されると、政府は大学南校を中心として人材の養成を企画し、貢進生の制度を定めた。この制度は諸藩から俊秀を選抜して大学南校に入学させ、欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材を養成しようとしたものである。

当時は南校において最も緊急な問題は専門学科の開設であったが、生徒募集の結果、応募者の学力は低いため、専門学科の開設は見送られた。当時としては最高学府であった南校がこうした状態であった。南校は外国人教師による「普通科」教育に重点をおく機関となったが、そのレベルはなお外国語修得を中心とする中等教育相当であった。

1971年(明治4年)7月には大学が廃止され,文部省の新設によって名称も単に「南校」として独立し、文部省の管轄となった。1872年(明治5年)8月の学制により大学南校は「第一大学区第一番中学」(学制における中学校)とされ、1873年(明治6年)4月には専門学校となって「開成学校」と改称し、1874年(明治7年)5月には「東京開成学校」に改称された。