佐藤涼平

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ありし日の佐藤 涼平君

佐藤 涼平(さとう りょうへい、1991年 - 2011年7月5日)は、岩手県花巻東高校の名プレーヤーである。

西武ライオンズ菊池雄星のチームメイトとして、2009年甲子園春の選抜大会準優勝、夏の全国選手権大会ベスト4入りに多大な貢献をした2番打者、中堅手であった。

甲子園に咲いた華 花巻東・佐藤涼平君の自殺を悼む[編集]

ありし日の佐藤 涼平君

日本体育大学野球部2年生の佐藤涼平君(20歳)が、自ら命を絶った。

7月5日午前11時頃、日体大の学生寮「健志台合宿寮」(横浜市青葉区鴨志田町)の裏手にある電柱に野球用のベルトを掛け、首を吊っているのを、通行した女性に発見された。将来を悲観した内容のメモが見付かったそうで、神奈川県警青葉署では自殺と断定した。

野球部関係者に依ると、佐藤君は4日午後2時15分から午後8時まで行われた練習に、普段通り参加した後で帰寮。寮で同室の学生が、前日の4日午後10時頃、言葉を交わした際には特に悩んでいる様子は見えなかったという。

日体大広報課は「虐めのようなものはなかった」と、野球部内でのトラブルを否定する声明を行なった。しかし、大学体育会特有の虐め体質に起因するものではなかったかとの憶測は根強く流れている。

佐藤涼平君は、岩手県の花巻東高校…通称「花東(はなとう)」野球部で2009年の甲子園、春の選抜大会準優勝、夏の全国選手権大会ベスト4入りに多大な貢献をした2番打者、中堅手であった。

高校野球ファンなら誰でも鮮明に記憶しているであろう、身長155cmで「小さな英雄」と謳われた、如何にも少年らしく爽やかで、快活で、笑顔の愛らしい名選手であった。

7月11日、岩手県宮古市内で、中学時代のチームメイト、西武ライオンズの菊池雄星投手ら同期の野球部員や佐々木洋監督、日体大野球部・古城隆利監督など、約200人がお別れ会に参列し、早過ぎる佐藤君の死を悼んだという

雄星ショック…元チームメート自殺。ギャップに苦しむ?[編集]

ありし日の佐藤 涼平君

プロ野球西武の菊池雄星投手(20)と花巻東高(岩手)野球部時代のチームメートで、2009年の甲子園大会でレギュラーとして活躍した日体大野球部2年の佐藤涼平さん(20))が、横浜市内の大学寮近くの路上で首をつっているのが発見された。その後、搬送先で亡くなり7日、同市内で葬儀が営まれた。将来を悲観したメモが見つかっており、県警は自殺とみている。

身長1メートル55と小柄ながら俊敏な動きと驚異的な粘りで出塁し、2009年春の甲子園で準優勝、夏の4強入りに大きく貢献した佐藤さん。地元東北の人たちはもちろん、全国の高校野球ファンの記憶に残っている好選手が、20歳の若さで自ら命を絶った。

神奈川県警と青葉署によると、佐藤さんは今月4日午後10時15分ごろ、横浜市青葉区にある大学寮近くの電柱に野球用のベルトをかけ、首をつっているのを通りがかった女性に発見された。病院に搬送されたが、5日午前0時34分死亡が確認された。残されたメモには、母親と兄弟にわびるような内容が書かれていたという。

7日午後、佐藤さんの葬儀に参列した計約80人の野球部員たちは沈痛な表情で寮に戻った。

野球部関係者は「4日も通常通り練習をこなしていた。悩んでいた様子もなくなぜだか分からない」と困惑していた。東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市出身だが「ご家族も無事で、震災で精神的に参っているということはなかった」という。

佐藤さんが甲子園で躍動したのは3年前。ひときわ注目を浴びたのは夏の準々決勝、明豊(大分)戦。同点の延長10回表、1死一塁から送りバントした際に相手野手と交錯し、担架で退場。送った走者は次打者のヒットで生還し、これが決勝点になった。佐藤さんは頭部打撲と診察されながら「出たい!」と医務室を飛び出し10回裏の守備につき、拍手を浴びた。

卒業後に推薦入学した日体大でも硬式野球部に所属。だが、常時ベンチ入りするほどの活躍はできず、周囲では「期待とのギャップに苦しんでいたかもしれない」と指摘する声も。最近、部内で重責を任されるようになった佐藤さんについて、親族が「どうも重荷に感じているようだ」と心配していたとの話もある。

青葉署では、詳細について「事件性がないので何もお話しすることはない」としている。

 ≪夜は真っ暗に≫現場は大学寮の裏手に通っている、人通りの少ない脇道。交差する大通りの交通量の多さとは対照的で、周辺を樹木に覆われ、ひっそりとしている。街路灯もなく「夜には真っ暗になる」と近所の住人。大通りとの交差点付近に住む女性は「あんなところで自殺があったんですか?知らなかった。警察が来てたことも気付かなかった」と驚いていた。

 ≪西武雄星もショック≫西武・菊池は元チームメートの突然の死に困惑の表情を浮かべた。この日は埼玉県所沢市西武第2球場で2軍練習に参加し、ランニングなどをこなした。練習後、報道陣の問いかけに「まだ正確な事実が分からないので…」と語るにとどまり、ショックを受けている様子だった。

花巻東・佐藤涼平の高校野球(2010年2月)[編集]

ありし日の佐藤 涼平君

2010年、1月中旬の岩手県花巻市。新たなステージに心を燃やし、黙々と木製バットを振る佐藤涼平がいた。花巻から3時間はかかる実家の宮古市には帰らず、大学の入寮の時を花巻で待つという。授業がない入試期間でも、後輩と一緒に汗を流していた。

昨秋、高校野球の取材をしていると、「花巻東の佐藤涼平選手を意識している」という選手が数名いた。楽天イーグルスの前監督・野村克也氏が「花巻東にちっちゃいのがおるやろ。どんなボールでもファウルにして、四球で出塁する」と言い、そのプレーを絶賛したこともある。

全力でプレーする花巻東ナインの中にあって、周りより頭1つ小さい彼の全力は見る者を惹きつけた。ファウルで粘り、出塁する。その技術はもちろん、その一生懸命な姿が感動を呼び、多大な影響を与えた。

そんな彼のことは、各方面でいろいろと伝えられている。病弱だったこと。お父さんが亡くなっていること。身長が155㎝なこと。入学して間もなく、佐々木洋監督から「身長は長所だ」と言われたこと。カット打法を身につけたこと。日体大に進学し、将来は指導者を目指すこと…。

彼は、ヒットを打ちたくはなかったのだろうか?どうやってカット打法を身につけて、本当に身長を長所に変えたのだろうか?そこに、どんな意味があったのだろうか?はじめから、全力で一生懸命プレーできたのだろうか?どんな3年間を送り、卒業の時を待っているのだろうか?

得意科目は日本史だ。

「人物がやったこととか、人間性とか、そういうのが面白いなと思っています。監督さんが教科担当で、教科書に載らないようなことを教えてもらえるんですよ。どういった人間がこういうことをしたからこういう事件が起きて、だけど、その人のお陰でこうなったとか、教えてもらいました。全部、原因があって結果があるという教え方で、人生にいきるような話、プラス授業という感じです。元々、日本史は好きでしたけど、覚えられなかったですね。教科書を暗記するだけだったので、頭の中でイメージできず、かなり苦戦していました。監督さんの授業のお陰で、イメージしながら勉強できるようになり、覚えは早くなりました。野球と一緒です」

印象深いのは幕末西郷隆盛大久保利通の関係性だという。

「西郷隆盛が印象に残っています。同じ薩摩藩で大久保利通という人がいて、名前的にいったら西郷隆盛の方が有名だと思うんですけど、ただ、先頭に立ってやっていたのは大久保利通の方が多いのに、何故、西郷隆盛の方が有名なのかというと、西郷隆盛は人間性がよく、情に熱い人だったと。

大久保利通は頭がよすぎて、いい反面、悪いことにも頭が使えたと言っていたんですよ。西郷隆盛は明治維新武士がいらなくなるというのをわかっていたんですけど、武士のためにと改革しようと思った時、外国に視察にいっていた大久保利通が帰ってきて、『その改革はダメだ』ってなって西郷隆盛はいなくなったんです。西郷隆盛は自分を中心に考えるんじゃなくて、周りのことに気を使って周りの人のためにという考えが強い人だったらしいので、それがみんなから愛されて記憶に残る人物だったと教わりました」

センバツから帰ってくると、3年生になり、佐々木監督の授業が始まった。

「1年生が現代社会、2年生が世界史で部長先生、3年生の日本史が監督さんです。最初は緊張しました。毎年、3年生の日本史は監督さんなので、3年生になった瞬間、『はー、監督さんの授業だ』ってソワソワした感じになりましたね(笑)部長先生の授業も面白かったです。世界史というか、地理が苦手だったので、(国の位置関係を)覚えるのが大変だったんですけど、流石先生もいろんな話しをしてくれるのですごく面白かったですね」

賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ―。“歴史から学ぶ”ということの意味を、流石裕之部長と佐々木監督からしっかり教わった。野球に通じる考え方も、授業の中で吸収していった。 本も読むようになった。

「体験談的な、苦難を乗り越えた人の話しを聞くのはやっぱり読んでいて勉強になります。監督さんがミーティングの時にいろんな本を紹介してくれるんですよ。『久しぶりに面白い本があったんだけど』って、こういう本でこういう内容だったんだって言って。次の週のオフに雄星が買いに行って(笑)。いろんな本見せてもらいました。雄星が『これいいよ』って言うと後から自分で買ってみたり。自分、中学校までは図書室に行ったことがないくらい本が嫌いでした。ジッとしているのが嫌だったんですよ。読んでいて眠くなってくるし。授業中も集中して聞いていなかったです、中学校の時は。それが高校に入って、本を読む楽しさを覚えてからは本を読むようになりましたね。雄星のお陰だったと思いますね。遠征中のバスとか、みんな本を読んでいますもん」

年末年始は忙しかった。高校野球を終えて、地元・宮古で知人に感謝を伝えて回った。

「年末年始は、ずっと、あいさつ回りをしていました。みなさん、喜んでくださって、それくらい応援してくれていたっていうのが伝わってきました。改めて、大学でも頑張らなきゃいけないなって思いました。中学校の先生や野球部の先生、お世話になった校長先生とかの中学校を3件くらい回って、あとはちっちゃい頃から仲良くしてもらってた人とか、お世話になった人に。40件くらい行きましたね。ゆっくり出来る期間がその時しかなかったので。今までの生活だと出来なかったので、一気に行ったんですけど、ちょっと、結構、疲れました」

だが、その疲れも吹き飛ぶくらい、多くの人が活躍を喜んでくれた。応援されていたことを肌で感じた。

今は、2月15日から日体大のキャンプが始まるため、練習に明け暮れている。「引退する前よりも練習しているかも」と冗談交じりに笑顔を見せた。高校最後のテストを受け、2月9日か10日には生まれ育った岩手から旅立つそうだ。

体育教師を目指そうと思ったのは中学生の頃。1年生の時にいた女性の体育の先生に憧れた。1本筋が通った指導をする先生はカッコよかった。加えて、花巻東で学んだ「野球」を子どもたちに伝えたいのだという。目標の立て方、その目標への向かい方、達成の仕方を学んだ今、夢がはっきりと見えている。

「中学校までは『なりたい』っていうよりも『なれればいいな』くらいの、具体的な目標じゃなかったんですけど、高校入って、監督さんとか、いろんな指導してくださる方々と出会って、『指導者になりたい』って、そこで思えるようになったなって思います」

目標の設定の仕方を覚えたことでフワフワとした夢の輪郭が見えてきた。だが、今のご時世を18歳なりに考えている。教員免許の一刀流だけではダメだと、トレーナーの勉強もするという。資格取得はもちろんだが、「選手の中で一番、怪我が怖いことなので、それをいかに少なくできるかっていうのを自分が指導しながら、そういうことを教えられたらいいなと思って。やるからにはいろんな勉強をしたいので」と、未来の教え子たちの体を気遣ってのこと。2つも3つも勉強し、さらに、野球も極めるのは大変なことだと思うが―。

「やっぱり頑張る気持ちにさせてくれるのは目標なので。目標の設定の仕方っていうのをここで教わっているので。自分がなりたい目標に対してのエネルギーを注ぐっていうか、そういうのは頑張っていきたいなって思います」

高校進学は、誰もが悩むこと。やりたいことがあれば尚更だ。小さくてマッチ棒のようだったという中学生に人生の分かれ道がやってきた。中学の仲間と地元の公立校に進学しようか、でも、本心は私立の強いところでやってみたいというものだった。本気で甲子園を目指す集団の中でもまれて上を目指したかった。

「監督さんのほうから『来てほしい』っていうことを言われて、自分はもう、私立で野球が強いところに行きたかったので、できれば行きたいなぁと思っていたんですけど、母からは反対されました。自分自身も、一人でやっていくっていう自信がなかったので、最初は不安だったんですけど、そう言いながらもどうしても行きたいってことを言っていたんです。でも、絶対ダメだって、ずーっと言われて、2週間くらいですかね、口、全然利かないような感じで。そのことには触れずにこう、日常が流れていったみたいな感じでした。険悪したムードというか」

母の思いと自分の思いが平行線をたどっていた頃、佐々木監督が中学校を訪れた。

「監督さん、学校に来てくださったんです。そのとき、自分は授業だったので立ち会わなかったんですが。校長先生が『何で、涼平君をほしいんですか?』って聞いたときに、『野球もそうですけど、目です』っていう風に言ってくれたらしいんですよ。基本的にはやっぱり技術で見るのが普通じゃないですか。でも、その時に『技術以外でやっている目が決め手です』って言われたときに、母親が、この人なら絶対に預けて大丈夫だっていう風に思ったらしくて。離す心配もあったんですけど、でも、いずれは離れていくものじゃないですか。親離れもしなきゃいけないんで。それに、例えば私立に、花巻東に入れなかったとして、公立高校に行って自分が高校3年間の間に花巻東高校が甲子園に行ったら多分、自分自身も後悔しますし、親も後悔すると思ったらしくて、それで入れようって決めてくれたみたいです」

姉は背中を押してくれていた。

「自分の姉、5つ離れているんですけど、母親から相談されたらしくて。姉は『入れた方いいんじゃない?』っていう風なことは言っていたらしいんですよ。『いいんじゃない。行きたいなら行かせたほうが』っていうような感じで」

母からの「行っていいよ」の一言は2週間の確執をゼロにした。その後、すぐさま入試。受験日の前日に母と花巻入りした。雪積もる、花巻の風景に驚いたと同時に、人生初の入試に緊張した。

「前の日、23時に寝て6時半に起きたんですけど、2時間くらいしか寝ていない感覚っていうか。多分、緊張していたと思うんですけど。もう、朝起きたら頭ボォ~っとして(笑)面接で何を聞かれて、何をしゃべったか全然覚えていないです」

入試を終え、緊張から解き放たれた帰り、母は雪道を3時間、運転してくれた。そして、合格発表。

「通知も来たんですけど、学校に合格した人、張らさったりしているんで、それを、小学校の時の友達が花巻にいたので『見に行ってあげるよ』って言われて見てもらいました。『あったよー』って聞いて『あ、そっか』って。で、次の日に合格通知が来て『あ、ちゃんと合格していた』と。だまされていなかったです(笑)」

さぁ、無事に合格。実家を出るときは寂しくなかったという。ただ、希望に満ちあふれた心で母の気持ちは察していた。「自分はそうでもなかったですけど、多分、親は相当、寂しかったと思います。親はどうなるかと心配だったと。今でも心配って言われます(笑)」

1年生の秋からベンチ入りした。2年生の秋、レギュラーになると、ベンチ入り経験を無駄にはしなかった。

「1年生の秋からベンチに入れさせてもらっていたので、監督さんがどういう野球をしたいか、この状況ではこういうサインが出るというのは、近くで見ること出来ていたので、こういったときにこういう選手が必要だとか、いろんな話しを聞いて、自分がそういった選手になりたいなって思っていましたね」

野球選手だったらヒットを打ちたい、ホームランを打ちたい、といった願望があるだろう。それはなかったのか。

「うーーん、打てばやっぱり嬉しかったですけど、でも、それで褒められたこと、1回もなかったので。逆に、たかがって言い方、ちょっと変ですけど、たった1個のフォアボールでもそれで褒められた。そういう、他の選手と違う褒め方で褒められたので、褒められるためにはヒット打つんじゃなくて、自分の役割をしっかり果たした時っていう感じでした。とにかく自分の役割を果たそうってことはいつも思っていましたね」

それがチームのためになると信じて打席に立った。

「やっぱり、チームのためにってことはいつも考えましたね。自分はずっと2番バッターで打たせてもらっていたんですけど、自分の中で考える2番バッターはゲームを作るバッター。1番バッターが出たら送りバント、ま、送りバントだけじゃないですけど、その次につなげる打席にして。自分が出なきゃいけない場面は出てっていう感じで。ランナーに出たら走ってチャンスを作る。それにやりがいを感じていました。自分ができなければ、チームにいい流れがこないっていうか、例えば、ノーアウトでランナーが出ても2番バッターなのに送れないってなったら絶対にチームの雰囲気も悪くなると思っていたので、2番バッターの重要性っていうのはすごく意識していましたね。練習試合でも勝ったり負けたり、もちろんあると思うんですけど、負けた試合を考えた時、自分、何やったかなぁと思うと、バント失敗だったりとか、ここで三振しちゃいけないって、例えば、1アウト3塁で三振だったりとか。そういうのがあって、自分が仕事できないとダメだなって思いましたね。勝った試合は、きちっとヒット打ったとかじゃなくて、仕事をしたっていう時。そこ(勝ち負け)を両方経験しながら、こういう場面でこうしなきゃいけなかったなぁとか、あの時、あぁゆう失敗したからこういう風にしてこうって、次のことにつながるようなことが出来たんじゃないかなぁって思います」

1つ上の先輩が県大会で敗れ、“自分たちの代”がやってきた。チームは最初、神宮大会出場が目標だった。

「神宮大会に出る=センバツ行ける。だったら神宮を目指そうって。神宮大会=東北大会優勝じゃないですか。そうすれば甲子園も決まりだしということで練習しました。でも、東北大会で負けてしまったんです」

東北大会は準決勝で光星学院(青森)に敗れた。その直後、転機が訪れる。

「何をしていいかわからず、どうしていいか悩んだ時期がありました。東北大会で負けた後、『自分、何も出来なかった。このままじゃ、来年は試合に出られないぞ』って。どうしようって思っていた時に監督さんに呼ばれて。『県内、または全国一嫌がられるバッターになれ』って言われました。その時にファウル打ちのことを言われて。『狙ってファウルを打って球数を投げさせて、フォアボールで出てもおまえはヒットなんだぞ』と。

その後、コーチの方にずっと付きっきりで指導してもらって。最初は、まだ大会終わった後で練習試合ができる日にちだったので練習試合とかやったんですけど、何回やっても絶対にファウル、打てなかったです。『2ストライクまで振るな。そこから粘る練習をしろ』って言われていたんですけど、全然、バットがボールに当たらないんですよ」

指示を受けたはいいが、どうにもこうにも当たらない。

「狙ってファウルを打つ」。

その意味を頭では理解していた。だが、実際にやるのは困難だった。2ストライクからファウルを狙って打つわけだから、当たらなければ、当然、三振の山を築いた。

「1日に2試合あって、だいたい、7打席か8打席ぐらい回ってきたんですけど、6三振とかの時あったんです。もう、しこたま怒られて。どうなってんだ!?みたいな。やー、全然できないと思って。練習してんのに、全然できないと思って。ずっと練習して、冬場もずっとそういった練習を。バッティングで(ヒットを)打つよりも、ファウルを打つ練習ばっかりして。春にやっとこう、少しずつできるようになってきたんですけど、まだ、どうすればファウルが打てるってかまではたどり着かなかったんですよ」

そんな試行錯誤中、吉報が届く。花巻東として初のセンバツ出場。

完成されていないが、それで試合に挑まなければならない。試合は確実に近づいていた。完成されていなかったが、最も球数を投げさせたのは、センバツで関西に行ったときの練習試合だった。相手投手に15球、投げさせた。

「センバツで粘ってフォアボールで出たのは1試合、初戦の鵡川戦の1回だけで、それ意外はずっと粘れない状態でした。それが終わってからやっぱり、出来なきゃダメだなと思って。春は一応、打率はそこそこだったんですけど、自分はそういうバッターじゃなかったので、それは、ただ単にまぐれだと思いました。自分の仕事をしなきゃいけないって考えたときに、センバツの反省は全然粘れなかったこと。終わってからの練習試合ではファウルで粘るのはかなり意識してやっていましたね」

「B戦ではできたんですけど、A戦でできなくて、松田さん(松田優作コーチ)に『おまえ、プレッシャーに弱いな』って言われながらやっていました。松田さんにからかわれるっていうか、そういう風に言われた時に『くっそー、今に見とけよー』って思いました。でも、実際、ちゃんと粘った打席に限って三振でした」

完成はまだ先だが、徐々に試合で使えるようになってくる。

「センバツが終わってから1ヶ月か2ヶ月ぐらいしたあたりからちょっとずつわかってきた感じがありました。6月くらいですかね。5月から6月くらいにかけては、わかり始めてきた感じでしたね。あとは、ただ単にその時は体験がなかったので。公式戦っていう。その公式戦で出来るかどうかっていう風な不安だけしかなかったですね。練習試合では、1日、4つとかフォアボールで全部、粘って出たりとかっていうのもあったので、使えるかなと思ったのですが、公式戦となると」

負けられないという公式戦の雰囲気。いくら練習試合で出来たとしても、確かな自信とまではいかなかった。

出塁し、チームにプラスになるための働きをする。ファウルを打つという過程から出塁という結果にいきつくことが大切。だから、2ストライクまでは出塁するために、ヒットを打ちにいった。

「自分は全部のポジションをまずは見るんですけど、自分は、どっちかっていうと打てるタイプのバッターじゃない。どこのチームもポジショニングを敷くと思うんですけど、どこにどういう野手がいるのかと思って、2ストライクなるまでは野手の間を抜けるゴロを、強いゴロを打とうっていう風に、いつも思っていました。場面に応じてなんですけど、この打席は2ストライクまで打たないって決めて入る打席もあります。それを決めるのはネクストバッターだったり、ベンチで控えている時だったりとか、そろそろ次の打席回ってくるとしたらこういう場面か、ランナーなしかって、常に考えていました。自分だけじゃないですけど、みんなもそういう風に全部流れで考えていたので、この場面だったらこういう風な点の取り方っていう風な感じっていうのはありました」

1年秋からベンチに入り、試合の流れを考える力を身につけたからこその結果。だが、これを自分1人の力じゃないという。

「自分が生き残るためには、秋のままじゃ、ダメだと思って。新しい何かを身につけなきゃいけないと。元々、バントしかなかったので、それだけじゃ塁にも出られないし、どこのチームも警戒するのは分かっているので、そういった新しい自分を見つけさせるために、やっぱり監督さんがそう思って、提案してくれたと思いますし、だからコーチの方もずっと付きっ切りでやってくれたと思っているので。コーチだけじゃなくて、ベンチに入れなかった控えの3年生だったりとか、1、2年生も手伝ってくれたりとかして。自分だけの結果というよりも、やっぱり、チームのみんなの支えがあってという感じに思いますね」

佐々木監督から「狙ってファウルを打てるようになれ」と言われた時、その意図を説明された。

「監督さんの考え方は、ヒットはヒットなんですけど、フォアボール、デッドボールもヒットなんです。盗塁したら2ベースなんです。という考えで自分に説明してくれました。『あ、そういうことか』と。ヒットを打っても評価されないんですよ、自分。フォアボールで出たら褒められるんですよ。違った褒め方だったんですね、監督さん。自分とか山田(隼弥)は。山田も同じ役割だったので。ヒットよりもフォアボールで出ると褒められて、それで初球、パーンと走ったらもう二重丸って感じです。それが結局、チームの得点率が上がるものでもあったので。理想は1番が出て、2番がつないで、3番、4番が返すっていうのが。どこのチームもそうだと思うんですけど、それが一番難しいことだと思うんですよね。一番、注意しなきゃいけないっていう上位打線。その中で点数取るためにどうしなきゃいけないか考えたときに1番、2番の出塁率、それから機動力、進塁打とか。監督さんはタイムリーで得点取りたくないんですよ。極端な話し、ノーヒットで1点を取りたいんです。すごい嫌じゃないですか。ヒットゼロなのに、得点1って入るって。それを出来たのが夏の東北高校戦だったんです。3点目を取った時、山田がバントヒットで出たんです。盗塁をして、キャッチャーが投げてショートがそらしてしまって、それで山田、三塁に行ったんです。柏葉はその時、カウント1-2だったのでバッティングカウント。犠牲フライ狙っていた感じだったんですけど、いいコース決まって2ストライクとなってファーストゴロで1点入ったんですけど。あの野球を出来たときは本当、『やったぜ』という感じでした。逆に言えば、自分たちがそういう野球をやっているんで、自分たちの守備の時にやられても大丈夫なんですよ。自分たちが分かっていれば、やられても普通に対処できるんですよ。面倒くさいじゃないですか、足の速いバッターとか、走れるバッターをランナーに出すと。気を使わないといけないんで。そういうのになりたかったんですよね、自分は。で、自分がアウトになってもピッチャーが『うわ、マジ、疲れた~』っていう時に3番、4番でガチャーンと甘いボールを打ってくれたりしていたんで。アウトになっても何か傷跡が残るバッターになりたかったっていうのはありましたね」

そういう考えがあってこそ。そういう考えを理解してこそ。役割を徹底して全うすることができた。

「そのきっかけくれたのが監督さんで、コーチの方々のお陰だったので。生きていけそうな道のレールを用意してもらってからは自分の力だと思ったので、絶対にマスターしてやるって気持ちがありました。ほんとに監督さんたちは選手を見る力っていうか、恐ろしいなって思います」

「自分の中ではヒット打たなくても、いつの間にか塁に出ているっていうのが理想ですね。監督さんにもヒットを打つよりもフォアボールとかデッドボールの方がピッチャーは相当ショックを受けるっていう風に言っていたので。自分もピッチャーやった経験があるので、フォアボールだと『うわ~、出しちゃった~』って感じなんですけど、ヒットだったら『あ、打たれた。じゃ、次、抑えればいいや』ってすぐに切り替えられるので」

少年野球、中学野球とピッチャーを経験した。

「中学校の時は、人数がいなかったので、内野手とピッチャーもっていう風な。1個上の代のときはセカンドで、自分の代になってからショートを守りました」

打順は1番だった。

「ヒット、打てればいいんですけど、まぁ、内野に隙があればセーフティってな感じでした」

高校では当然、内野手として入部した。しかし―。

「1年生の秋から2ポジションって感じでした。自分、内野で入ったんですけど、全然ボール取れなくて(笑)。バウンドが合わないんですよね、全然」

 中学時代は部活動の軟式野球。硬式球の感覚が分からなかった。

「今でもわかんないんですけど(笑)。ほんっとボール捕れなかったんですよ!セカンド、ショート、サードって3つやっていましたが、全然、捕れなくて。それでも、1年生の秋にベンチに入れていただいたんですけど、ベンチに入っている人数の関係上、外野がちょっと足りないっていう風に言われて、それで『お前やってみて』っていう風なことから、2年生の夏までずっと2ポジションって感じでやっていて。ただ、やっていると、外野の方がなんか、ボール捕れるようになっていて、『内野より外野の方がいいかな』と思い始めて(笑)。内野は、軟式の時は自信あったんですけど、硬式は全然ダメですね。外野だとゴロは内野よりも時間があるじゃないですか、距離があるので捕れたんですけど(笑)」

 横倉怜武、柏葉康貴、川村悠真、猿川拓朗。もしも、硬式ボールで無難に守備をこなしていたら…

「出なかったと思います、たぶん。相当うまいですよ。ビビリます。惚れ惚れします(笑)。カバーリングでこう走りながら『ヤバッ!!!』って(笑)。みんなうまいんすけど、やっぱり二遊間はやばいですね。1年生からずっと二遊間だったんで、花巻東の。入学したときからまず違かった。『なんだ、こいつら』みたいなって感じでしたね(笑)。『なんだ、このレベルは』って」

Aチームの二遊間を見ながら、懸命に打球を追った。そんな時、チーム事情から突如、外野へ。これも、運命の1つだった。

目標は具体的な方がいい。「甲子園」といっても、実際に生で見るのと、映像や画像を通してでは違う。

「1年生の時の3年生が甲子園に行ったんです。ということは、次の夏は連覇がかかっている大会じゃないですか。岩手では、春の県大会、夏のシード権争いで優勝しちゃうと、夏に優勝できないっていうジンクスがあったんですよ、10年くらい。昨年の先輩方は春に優勝して、夏、勝てなかったんです。監督さん、どうしてもそれを払拭したくて。『そんなの関係ないんだってところ見せろ』って言われました」

だが、センバツを終えると日本中に花巻東フィーバーが巻き起こっていた。自分たちではどうしようもない、コントロールがつかない状況。どうしていいかわからない苦しい時期だった。

「センバツから帰ってきて、どこか気が抜けたところがあったというか。練習試合も勝てないし、チームとしてやろうとしなきゃいけないこともわかっているのに空回りっていうか。

周りの目がすごく気になってしまってプレッシャーを感じていました。春の県大会・・・初戦とか、2回戦とか、監督さんの言うこと…みんな聞いていなかったんですよ。分厚い壁ができてしまって。でも、3回戦以降、勝ち上がっていくと、段々、いつも通りになってきたんですけど」

監督と選手の間にできた、見えない壁。徐々に取っ払い、県大会こそ優勝できたが、東北大会ではコロッと負けた。

「どん底を味わったというか。自分たちの弱さに気づいて、もう1回やらないといけないってなって。春の優勝のジンクスを今年で打ち破るってなって、夏に臨みました。夏前もうまくいかないことがあったんですが、毎年、最後の練習試合の日に3年生全員で監督さんのノックを受けるんです。2試合目はいつも試合に出ているメンバーじゃなくて、試合に出ていないメンバーが出て試合をやるんですが、その時に本当に1つになったというか。それで、もう1度、監督さんを甲子園の舞台に連れて行って、日本一にさせたいってみんなの思いがあって。サポートしてくれるのは3年生だけじゃないですし、普段、1、2年生も自分たちのために協力してくれていたので。その人たちの分も、応援してくれる人たちのためにもっていう風な思いが自分たちを1つにさせて甲子園に行けたなって思っています」

花巻東のベースボールTシャツの裏には「決してあきらめない Never never never give up」と、佐々木監督直筆の文字がプリントされている。

8月21日、準々決勝の対明豊戦の9回表、花巻東は2点差のリードを許していた。だが、この諦めない精神がクリーンアップの3連打という形で発揮された。

6-6の同点として迎えた10回表。

花巻東にとっては絶好のチャンスが来た。1番・柏葉康貴からの攻撃だった。何が何でも出塁しなければならない場面で柏葉は三安で出塁。きっちり仕事を果たしたのを見て、打席に向かった。

「つなげれば、絶対、3番打つ、キャプテン打つって、なんか、打ってくれるって思っていたんです。いっつもそうなんです。大事な場面って、いっつもキャプテン打っているんですよ。なので、『あ、その場面かなぁ』と思って。絶対、次につなげれば、3、4番で打ってくれると思っていたので。とにかく送ろうっていう風なのだけ。サードがすごい前に来ていたので、『これ、サードはダメだな』と思ってファーストにやろうと。バントしたんですけど、一瞬、ちょっとフライみたいな感じでパーンって上がって、あぁ!やばい!と思いました。で、ファーストが取るまで、ずっとファーストしか見ていなかったんですよ。ファーストだけ横目に見て走っていて、ファーストがトスをする時に、やっと、『あ、大丈夫だ』と向いたときにセカンドがいてガーンとぶつかった。当たった瞬間は、一瞬、フワっと意識が飛んで、ただ、倒れた後にまたすぐ戻って。『頭、いってー』と思いながらも動こうとしたんですが、なかなか動けなくて。うずくまっていたら、そのうちに監督さんと流石先生の声が聞こえました。とにかく医務室に運ぶとなって、運ばれて、頭痛かったんですけど、意識はあって、しっかりと。で、医務室入ったらお医者さんがいて、『意識あるか』って聞かれて、『あぁ、大丈夫です、もう、行けます』っていう感じでした。脈も計りました。とにかくもう、あの試合は雄星が初めて本当に出られない状況。怪我じゃなくて、本当にもう途中からも出られないっていう状況の中で初めての試合だったので『自分がここで抜けるわけにはいかない。選手もみんな出てがんばっている、絶対にあのグラウンドに戻る』って思いだったので、とにかく、『行けます、大丈夫です』ということだけは伝えていましたね」

医務室で処置を受けている間、グラウンドでは思い描いていてシナリオが展開されていた。医務室は1塁側ベンチの後ろにあるそうだ。

「歓声が聞こえて、最初、明豊の方から歓声が聞こえたかなと思ったんです。あっち(3塁側)から声が聞こえるじゃないですか」

あの試合、花巻東ベンチは3塁側。明豊が1塁側だった。

「声があっち(3塁側)から聞こえるってことは絶対、こっち(1塁)側に声が来るじゃないですか。こっち(1塁側)からの応援はあっち(3塁側)に聞こえるじゃないですか。ていうのを全然わからなくて、その時は。で、1塁側から歓声が上がったと思って、『あー、ファインプレーされたのかなぁ』と思いました。『どうなんだろう?』と思いながら、『じゃあ、行っていいよ』ってお医者さんに言われた時に初めて流石先生に『1点取ったぞ』って言われて、やっぱり打ったんだなって。やっぱ、あいつ打ったんだなと思って、さすがだなと思いました」

運ばれた後、1死二塁となり、3番・川村悠真がセンターに勝ち越し打を放っていた。結果を聞き、一目散にグラウンドに戻ると、27,000の大観衆が待っていてくれた。

「嬉しかったですね、素直に、歓声が。やっぱり、みんなに心配かけたので、少しでもその不安を取り除けるように笑顔で戻ろうと思って」

笑顔でグラウンドに飛び出し、全力疾走でセンターの守備位置に駆け出していった。ショートにいる打ったキャプテン・川村とハイタッチ。

「戻ったときにハイタッチしたと思うんですけど、あの時に『さすがだな』って」

気持ちはもう、大丈夫。でも、身体はまだ、おかしかった。

「ボーっとしていました、ずっと。意識、はっきりはしてたんですけど、何も考えられてない状態でした」

10回裏、この回先頭の明豊の打者が大きくフライを打ち上げた。

「ボール来た、と思って反射的にウワーって行って、『ボール、あ、取れる』と思って自分が行こうと思ったんですけど、ライトが『ライト、ライト、ライト』って言って声かけていて。自分も『センター、センター』って。たぶん、声がかぶったと思うんですけど、それであんな感じになったと思います。実際、あとからビデオで見たら全然自分が行くボールじゃなかったっていう(笑)」

ボールはライト・佐藤隆二郎のグラブの中に収まっていた。

「自分、その後、たぶん、こんな風(キョロキョロ)にしていたと思うんですけど、あれ、本当に落としたと思ったんですよ、ボール(笑)。『やばい!』と思って探していたら、取っていて、あぁって(笑)。その、フライが上がってきた1球と、最後のセカンドゴロしか覚えていないですね。最終回は。何で2アウト取ったかな?っていう風な。あ!フォアボール出ましたよね?たしか」

1死の後、四球が出て、2死目は二飛で取っている。

「フォアボール出て、セカンドゴロで終わりだった気がするんですけど、その2アウト目とか、何で取ったとか覚えてないですし、バッターが誰とかも全然覚えていないです。ボーっとしながらも試合が終わったんだってことには気づいて整列したんですけど。ぶつかったセカンドの子が、センバツの時から仲良かったんで、謝ってきてくれて。今宮選手が『がんばれよ』って言ってくれました。握手した時に。あと野口投手が、『優勝しろよ』っていう風な感じで言ったのは覚えていますね。いつも通りになったのは、帰ってからですかね?バスの中もずっとボーっとして、抜け殻って感じでした」

窓の外を見ると、雪が段々と濃くなってきた。

「大丈夫です。寮まで1分なんで」

じゃあ、その寮の話をしよう。

「楽しくてしょうがなかったですね。1年生のときはやっぱり、それなりに大変なこともあったんですけど、最上級生とかなったら、もうみんなで食事するのが楽しくて。いつも決まっているわけじゃないんですけど、だいたい、みんな同じ時間に集まって、喋っていました。練習が例えば、終わった時間が7時だとして、8時くらいまで自主練をする人もいて、なんか知らないけど、8時半なったらみんな集まってくるみたいな感じでした」

ご飯の時、みんなとお喋りするのが楽しく、実家を離れていても寂しくなんかなかった。だが、ちょっとホームシックなったこともある。

「1年生のときはありましたね、最初。でも、2年生になったら、逆に帰るのが面倒くさいなって思って(笑)。自分、帰るのに3時間、かかるじゃないですか。それもあって。自分たちの代、お盆休みがいつもはあるんですけど、それなくしたんですよ、自分たちで。『帰らない』って言って。1年生は帰ったんですけど、自分たちは練習するって言って。2年生の夏、負けたので。夏の大会、ベスト8。やっぱり、それがすごい悔しくて。その時、試合に出ていたメンバーが主力で4人いたんですけど、それもあって、みんなで悔しくて、自分たちの代は勝ちたいって思いがあったので。お盆休みなくして、みんなで練習しようって。監督さんにお願いして、自分たちで練習しました」

練習と生活でメリハリをつけた仲間関係。絆は確実に深まった。

「自分たちのチームの徹底事項、100パーセントできることをきっちりやるっていうので「元気、全力疾走、カバーリング」って3つあるんですけど、そのカバーリングをやってなかったり、遅れてできなかったりすると、やっぱり怒られます。それくらい、みんなも1つのプレーに対して絶対にミスは許さないって環境でやっていました。でも、野球が終わってからは普通に話します。どんだけきついことを練習中に言っても寮に帰ってきたら仲良しって感じでしたね。本当に練習と日常生活とメリハリつけていたので、みんなで。みんなもそういう風なんだとわかっている。信頼しきっているので、きついことを言えますし、終わってから仲良くできるっていうのもあります」

「もう、野球のことしか考えていなかったですね。野球を集中してやるために、授業は聞いて、寮では勉強しないって感じでした。授業をきっちり聞けば点数取れるってわかっていたので。監督さんも授業をしっかり聞けば寮で勉強しなくても点数取れるって言われていたので。テスト期間はテスト期間で勉強もしながら練習って感じですが、とりあえず、授業はかなり聞いて、寮はガーって寝る。休み時間もとにかく、寝ていますね。10分休みとか、全部寝ています。お昼は寮でお弁当作ってもらうので、それを学校に運んできてもらって、それを取って、教室で食べる。食べたら寝るっという感じでした」

3年間、授業を聞いているか、寝ているか、野球をしているか。

「引退してやっとこう、みんなと話すようになりました。1年生が終わった後にコースの選択があってクラスが変わるので、2、3年は一緒です。自分は、教養コースで、野球部は、自分も含めて6人です」

野球をやるために、しっかり授業を聞く。休み時間は睡眠。野球にエネルギーを注ぐため、教室では蓄えていた。

「体力温存です。無駄なエネルギーを使わないっていう。野球のためにって感じでした」

修学旅行は沖縄に行った。

「みんなと泊まり慣れていたんですけど、修学旅行は修学旅行なりにこう、野球のことを1回置いて、単純に楽しめるところだったので、楽しかったかなと思います。暖かかったんですよ、すごい。12月だったんですけど、基本的に20度ちょいくらいあったので、みんなノースリーブでいましたね。帰ってきたときは、はぁって感じでした(笑)どんだげ、さみぃんだって。まぁ、夏はくそ暑いですけど、うらやましいなと思いました。(野球道具を)持っていった人も何人かいました。自分とか荷物に余裕がなかったので(笑)持っていけなかったです」

「文化祭は、1年生のときは学年全部でお化け屋敷やって、2年生のときはえーー、何だっけ?何か作ったんですよ、食べ物を。3年生は国体で出なかったので、そんなに。思い出としては残っていますけど、そんなに鮮明には。やっぱり、野球で思い出が多すぎたので」

野球一色の3年間だった。

高校進学で頭を悩ませてから2年ちょっと。もう、次の道を考える時がきた。

「センバツが終わってから監督さんに『進路どうする?』って言われて、『大学行きたいんですけど』って言いました。で、『お前、何になりたいんだ?』って言われて、『自分、体育教師になりたいんです』って言ったら『じゃあ、日体大にするか』って。それで『はい』って。進路はもう、母親も含めて自分も監督さんが行けって言ったところに行こうと思っていました。監督さんが『そこがいいんじゃない』って言ったら母も『どうぞ』っていう風な感じだったので」

希望の進路も決まり、野球に集中。夏の甲子園が終わると、すぐに受験だった。

「受験は9月5日でした。面接です。小論文は事前に書いたものを提出してって感じでした。姉が神奈川にいるので、前日、姉の家に泊まって、次の日、受験でした。合格は学校で、インターネットで見たんですよ。10時発表だったので、授業の始まり遅れますと断って、先生と一緒に見て、で、体育に行ったって感じでした」

よりによって、体育の授業だった。

「ハハ(笑)。安心した感じがありました。たしか、バレーボールをやった気がします。自分、いっつもバレーボールしかやっていないので。バスケットかバレーって感じなんですけど、いっつもバレーボールやっています。基本的に自分、あれなんですよね。親もそうだったんですけど、1個のスポーツやらせたくなかったっていうか。サッカーとかバレーとかいろいろなのをやれっていう風な感じだったので、学校とかでみんなといろんなスポーツやっていましたね。野球は父親の影響が大きかったです。父親も高校まで野球をやっていたんですけど、ただ、途中で心臓病があって辞めざる終えない状況になって。自分は生まれて物心ついた時からいつもテレビ中継を父親と見ていました。で、野球、面白そうだなと思って。ま、父さんもやっていたし、やってみよって感じで始めました。父親も強制する人じゃなかったので、やりたいのをやればって感じでした」

晴れて合格を手にした。

「やっぱり、続けさせてもらう以上は上を目指さなきゃいけないと思っています。とにかくまず、レギュラーを目指して頑張って、自分の中でもやっぱり補欠で終わりたくないっていうか、結果を出したいと思っているので。今まで高校で通用した力が大学で通用するかどうか試したいっていうのもありますし。そういった意味でもまたチャレンジできると思っています。高校卒業してすぐ働く人もいますし、そう考えたときに4年間、また学生として生活させてもらうので、親に感謝しなきゃいけないと思います。自分がこれからどうなりたいかって考えた時、やっぱり目標の設定の仕方を教えてもらったので、それを達成して監督さんにも恩返ししたいですし、いろんな方に感謝の心を持って、今までありがとうございましたっていう風なことを言えるようになりたいなって思っていますね」

岩手の空気で磨いてきた野球を、今度は横浜で磨く。そして、夢に向かって勉学に励む日々がもうすぐ始まる。新たな世界に飛び込む時、期待と不安が交差する想像を膨らませるものだ。

「大学生活ですか?うーーーーーん、やっぱ、あれっすね、岩手の人だけじゃない、他の県から集まる人たちと生活できるんで、いろんなことを学べるんじゃないかなと思います。あとはやっぱり、街中の、都会の感じを味わえるんじゃないかなと(笑)。ただ、怖いこともあるんですよね。あの、先輩との付き合いっていうのを…大学は高校と違って、3つ上までいるので。周りとうまくやっていけるかどうかっていうので不安はありますね」

4つの学年が1つの組織になっていることは経験がない。真剣に勝利を目指してきた中で、今まで関わったことがない、3つ上の先輩という存在。そして、何故だか1つ上でも2つ上でも大人びて感じるものだ。

その環境に若干の不安を抱いているが、大学野球への覚悟は決めている。

「もちろん、チームワークもあるんですけど、大学野球は個人の力が試合になった時に集まる感じですかね。大学って、全体練習が短いじゃないですか、高校よりも。なので、その分、自由な時間ができますし、いろんなこともできるようになる。お酒やたばこも含めて、いろんな誘惑があると思うんですけど、そこで自分の芯があるかどうかで成功するとかしないとか決まると思うんです。監督さんも言っていたんですけど、監督さんの同級生でジャイアンツの古城茂幸さんという方がいるんですけど、『どんなことがあっても自分を曲げなかった』って言っていました。高校時代プロ注目で、何で行かなかったの?って選手が、そういった誘惑とかに負けて、最後の方は使い物にならなかったっていうことも言っていたので。そういうことを聞くとやっぱり、自分の意志がどれくらい強くて、周りの誘惑に負けないかということが大事になってくると思います。そういった意味でも個人っていうイメージがありますね」

自由の中での個人の意識が、今後を左右する。

「自由時間を遊びに行くか、練習するかの時点で差が出るのは決まっていることじゃないですか。そこで、自分でいかに計画性を持って出来るかが大事だと思います。一種の社会人として生活しているようなもんじゃないですか。勤務が全体練習だとして、それ以外で何をしなきゃいけないかが自分の思いとかだと思うので。そこで他の人と差を付けたいと思っているので。ここで学んだことがそっくりそのままそうなんで。大学もチームプレーですけど、やっぱり個人の意識が一番重要だと思います。目標を見失わないで、今、何をしなきゃいけないかってことを最優先に考えて、大事に生きていきたいなって思います」

花巻東で学んだことを生かすのは、この先の長い人生だと分かっている。その第一歩が大学。

「ほんと、ここに入っていなかったら今頃どうなっていたんだろうって思います」

典型的な2番バッターだった。ランナーが出たらバントで送る。ランナーがいなければセーフティバントで出塁を狙う。どこにでもいる2番バッター。狙って四球を選ぶことはなかった。

「例えば、カウント悪くて、1-3でフォアボールになったとかっていう風なのはあるんですけど、それってやっぱ、ピッチャーの責任じゃないですか。自分の役割で出たフォアボールじゃないので。そういったのしかなかったですね」

誰でもがレギュラーを目指している中で、生き残り、試合に出たい。それは、自分が目立つためではない。ある思いがあったからだ。

「中学校の時に、柏葉と笈川(裕介)と県選抜に選んでもらったんですけど、その時に、今の盛岡第三高校の柴田監督が、高校野球の監督として自分たちを教えてくださったんです。その時、『お前みたいに体の小さい子に夢と希望を与える選手になれ』って言われて、監督さんにも同じこと言われたんですよ。やっぱり、自分が小さくてもできるってことを証明したいって気持ちがあったので、どうしても試合に出たかったんです」

そこに加わった「身長は長所だ」という言葉。

「頑張るきっかけになりましたね。やっぱり、その『お前の身長が長所だ』って言われたのが、3年間頑張れた大きな言葉っていっても過言じゃないくらい、自分の中で相当、救われた一言っていうか、そういうマイナスだった部分をプラスに変える言葉だったので、その言葉は自分の中で一番大きかったなって思います」

中学生の自分を、今の自分が見ると、全く違うという。

「毎回、毎回、いろんな苦労とかあったんですけど、高校入ってから、いろんな人に支えられたから、今の自分があるっていう風なことはすごい思いますね。考え方もそうですけど、やっぱり感謝する心を持ったかなって思います。どっちかっていうと、中学校までは、やっぱ、野球は誰にも負けたくなかったんで野球ばっかりやっていたんです。『俺はうまいんだぜ』みたいに、若干思っていたので。なんていうか、親や周りの人の助言とかもあんまり聞かなかったりしていたんですけど、高校入って、それは間違っていたっていう風に思って。自分が今野球をやらせてもらっているのも、まず、この高校に入れたこと自体も親のお陰ですし、今まで応援してくださった人とか、そういった人たちのお陰であって、今があると思いました。自分がその恩返しをするためには、なかなか1件1件家を回るってこともできないと思ったので、野球で頑張っている姿を見せたいと思っていました」

甲子園で頑張る姿で感謝を伝え、成長した姿を見せたかった。

「甲子園はやっぱり、楽しかったですね。あれだけのお客さんに見てもらって野球が出来るっていうことに、感謝っていうか。甲子園ってテレビに映るので、岩手の人とかも見るじゃないですか。それが、自分が言っていた感謝を伝える場所っていうか。甲子園は感謝を伝えられる場所だと思ったので、勝ち上がるごとに岩手県民の皆様からの応援もすごく感じましたし。わざわざ岩手から甲子園まで足を運んで見に来てくださった方もいました。そういった意味で、岩手の皆さんだけじゃないんですけど、全国の高校野球ファンの皆さんがすごく花巻東を応援してくれているっていうのを肌で感じました。でも、やっぱり監督さんを日本一にしたかった。日本一になって監督さんを胴上げしたかったっていうのがあったので、そこは、悔いは残っているんですけど、でも、やっぱり今までずっと、弱小岩手っていうか、そういう風に見られていた部分もあったので、そういったのを変えるきっかけは、今年できたんじゃないかっていう風に思いますね」

日本一は名誉のためじゃない。感謝を伝えるために目指していた。グラブの刺しゅうは「恩返し」だった。もう、佐々木監督の下で日本一を目指すことはできない。後は、後輩に託す。

「是非、達成してほしいですね。でも、いずれ岩手のチームで、花巻東じゃないかもしれないですけど、岩手のチームで日本一は出ると思っています。それが花巻東であればなおさら嬉しいですけど(笑)」

大学で教職の勉強をする予定だが、どんな先生を目指すのだろうか。

「やっぱり、ここで教わったことを中学生に教えたいって思っています。自分が中学校の時、そういう風にちょっと調子こいていた部分もあったので。そういうのじゃダメだっていうことを伝えたい。監督さんも自分の失敗から自分たちにそうなってはいけないっていう感じで自分の経験をもとに教えてくださったりするので。そして、監督さんのところに生徒を送り出して、その教え子たちが甲子園に出て、それを見に行ければなっていう風に思っています。ただ、今の3年生でも高校野球の指導者になりたいって人がいるので、岩手県内であればその人のところにも送り出したいなって思っています」

佐々木監督のところに送り出そうか、同級生のところに送り出そうか。その生徒に合った、進路を考える。大変ながらも、そんな贅沢な悩みを抱く未来はそう遠くない。

コンコン。応接室のドアの向こうに、紫色の陰がちらついた。

ガチャ、と開けたドアノブの辺りからクリクリの瞳がこちらを覗いた。目の前に立つ涼平の姿は、噂の155㎝とは思えないほど、大きく見えた。真っ直ぐで愛らしい瞳が、バットを握ると鋭く変わった。打撃について話す口調は真剣さを増し、自分が高校野球で生き残った証を一生懸命に説明する。

そして、連呼していた「でも、監督さんと松田さんのお陰です!」という言葉は高校野球を全うすることができた感謝の表れ。自分の打撃は映像でしか見たことがないらしく、打撃写真に熱心に見入っていた。バットが手から離れると、おしゃべりな口は止まらない。会話な中から高校3年間で培った豊かな感性が滲み出ている。

高校受験をした3年前の1月。身長は153センチだった。

「卒業する3月までに2センチ伸びて155センチになったんですよ。そろそろ、くるのかなと期待して、3年後には変わらないっていう(笑)」

155㎝で入学し、155㎝で卒業しそうだ。だが、筋力が付いて、体重は増えた。スクワットは100キロいかないが、ランジは120キロでやるそうだ。背丈は大きくないが、それを思わせないくらい、体つきは逞しい。

身長の伸びはなかったが、花巻東での3年間でたくさんのことを学び、吸収していった結果、心は計り知れないくらい成長を遂げた。

「1年目は、どうしても生活に慣れるのが大変で、あまり1年生の記憶ないってくらい、本当にがむしゃらにやっていただけでした。1日1日経つのが早くて、この間、4月だったのに、今日、7月だというくらい、本当に充実していた3年間だったなって思います」

2009年、最も日本人に感動を与えたと言っても過言ではないだろう、花巻東高校。岩手の素朴な人間性が人気に火を付けた。高校生らしさに多くの日本人が共感し、そのチームが創り出す野球の虜になった。よく「見ている人を感動させるようなプレーをしたい」という選手がいる。一生懸命な姿、真剣な姿、必死な姿、全力な姿、野球が大好きで野球を楽しんでいる姿…そして、チームが勝つために自己を犠牲にする姿。そんな姿に勝敗関係なく、見た人は心をグッとつかまれ、心が震える。

花巻東での3年間を一言でいうと?この問いに、涼平はこう答えた。

「何ですかね?一言は難しいですけど…強いて言うなら、「わ」ですかね。ヒトノワ。人とのつながり。仲間もそうですし。これ、マーク、ヒトノワって書くんですよ」

松田コーチからいただいた名刺に記されているマークを指差して、説明してくれた。花巻東の帽子のマークでもある。

「漢字の“人”でカタカナの“ノ”で、“〇(←ワ)”なんですよ。人ノ〇を大切にするっていう意味で作ったんですけど。それですね」

花巻東小さな2番打者千葉、憧れの先輩に真似たプレースタイルも審判部から注意(2013年)[編集]

156センチの小柄な体をさらに小さく丸め、ファウルで粘って出塁-。身長を生かした打撃スタイルで甲子園球場を沸かせ、花巻東(岩手県)をベスト4まで導いた小さな2番打者、千葉翔太選手(3年)。21日の準決勝を観戦していた花巻東のOBたちは、千葉選手のプレーに「涼平さんを思い出すな」とつぶやいた。

4年前の第91回全国高校野球選手権大会で、ベスト4まで勝ち進んだ菊池雄星投手(現、西武)を擁する花巻東ナインの2番打者、佐藤涼平さんのことだという。

佐藤さんは千葉選手よりも小さい155センチで、同じ2番打者で中堅手。小さなその体を目いっぱい小さくし、ストライクゾーンを狭める打撃スタイルまでそっくりだ。それもそのはず、千葉選手は、佐藤さんに憧れ、同じ花巻東の門をくぐったという。

19日の準々決勝の鳴門(徳島)戦、千葉選手は相手投手に41球を投げさせ、5打席で1安打4四球と、チームの勝利に貢献。しかし、試合後に大会審判部からの注意を受け、準決勝は、相手投手に投げさせた球数は4打席でわずか10球。4打数無安打と結果を出せなかった。

「甲子園への遺言」など野球に関する著作が多いノンフィクション作家、門田隆将さんは「千葉選手の活躍は全国の体の小さな選手に勇気とやる気を与えたはずだ。自分の創意と工夫でレギュラーを勝ち取り、甲子園の土を踏んだ希望の星」と活躍を称賛。

その一方で、大会審判部の対応について「そのプレースタイルは、誰もができるものではなく、一生懸命努力して会得したもの。高野連はその努力が分からないのか。希望の芽を摘もうとしている」と批判した。