ボリス・エリツィン

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ボリス・エリツィン
Борис Николаевич Ельцин
ボリス・エリツィン
STARTIIの調印式でのエリツィン大統領。
1993年1月3日モスクワ
ロシア連邦
初代大統領
任期: 1991年7月10日1999年12月31日
副大統領:
元首:
ロシア連邦
3代首相
任期: 1991年11月6日1992年6月15日
副大統領:
元首:
代大統領
任期:
副大統領:
元首:
代大統領
任期:
副大統領:
元首:
代大統領
任期:
副大統領:
元首:

出生: 1931年2月1日
スヴェルドロフスク
死去: 2007年4月23日
政党:
配偶者: ナイーナ・エリツィナ
サイン: サイン

ボリス・ニコライェヴィチ・エリツィンБорис Николаевич Ельцин, Boris Nikolayevich Yeltsin, 1931年2月1日 - 2007年4月23日)は、ロシア連邦政治家で、同国の初代大統領(在任: 1991年 - 1999年)である。

大統領在任中に冷戦の終結に成功しロシア連邦の民主化を行なったことへの評価と共に、後の強権政治や政治腐敗への批判もあった。

青年期[編集]

スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)市生まれ。家系はウラル地方の独立農民。父は富農撲滅運動で無実の罪を着せられ収容所生活を送った。第二次世界大戦中に武器庫から盗んだ手榴弾を分解している最中に、手榴弾が暴発し、左手の親指と人さし指が失われた。Bereznikiにあるプーシキン高校(Pushkin High School)を卒業。スヴェルドロフスク(現:エカテリンブルク)にあるウラル工科大学建築科卒業。

ソビエト連邦期[編集]

スヴェルドロフスク州党第一書記に就任。1976年ソ連共産党中央委員会建設部長に就任。さらに、レオニード・ブレジネフ書記長に抜擢され、1981年にソ連共産党中央委員となる。ゴルバチョフ政権発足後、1985年にソ連共産党政治局員候補兼中央委員会書記に就任。更にグリシン・モスクワ党第一書記解任後は、その後を襲ってモスクワ党第一書記に就任した。

エピソード[編集]

議員時代に、泥酔し足を滑らせて川に転落。危うく命を落としかけるところを通りがかった警官に保護されて一命を取り留めるという珍事件に遭遇している。後にこれが「エリツィン議員殺人未遂事件」として騒ぎになった。本人も後年回顧録で非常に恥らいながら回想している。

離党宣言の経緯・ソ連崩壊[編集]

ゴルバチョフの下では改革派として行動したが、他の政治局員からのエリツィンに対する批判はゴルバチョフを驚かせるほど強かった。1987年にブレジネフ派の大物エゴール・リガチョフと対立しモスクワ市の党第一書記を解任された。さらに1988年2月には政治局員候補からも解任される。しかし、1989年3月のモスクワ人民代議員選挙に当選し政界への復帰を果たす。この年民主綱領派のリーダーとなる。翌年の1990年5月にロシア共和国の最高会議議長(実質大統領)に就任。同年7月13日にはソ連共産党を離党宣言し世界に衝撃を与えた。1991年7月にはロシア共和国の大統領に就任。その年の8月にゲンナジー・ヤナーエフ・ソ連副大統領が起こしたソ連8月クーデターの際には戦車の上からロシア国民に対しゼネストを呼びかけるなど徹底抗戦し、民衆もこれを支持。結果としてクーデターを失敗に終わらせた。

ロシア連邦期[編集]

大統領就任[編集]

1991年12月31日をもって独立国家共同体(CIS)樹立を宣言、ソ連は解体し、エリツィンはロシア共和国から引き続いてロシア連邦の大統領となった。アメリカとの関係改善が進み(連邦崩壊後も、ソ連時代の全ての核兵器をロシア共和国が所有することをウクライナや白ロシアに認めさせたのは、アメリカの助言によるところが大きい)、1992年には第2次戦略兵器削減条約(START II)に調印。また市場経済導入を目指したが、その過程で発生したアレクサンドル・ルツコイ副大統領、ルスラン・ハズブラートフ最高会議議長ら議会との対立は1993年9月の議会による大統領解任劇に発展。これをみたエリツィンは最高会議と人民代議員大会を強制解体し、両者の対立は頂点に達した。翌10月には反大統領派がたてこもる最高会議ビルを戦車で砲撃し、議会側は降伏した(モスクワ騒擾事件)。その後12月には大統領に強大な権限を与え、議会を連邦院と国家院の両院制にする事を定めた新しいロシア連邦憲法が制定された。西側の主要国はエリツィンを支持したが、これが正しかったのか、歴史はまだ判断を下していないと思われる。

ロシアの威勢低下[編集]

その後チェチェン侵攻の失敗と急激な市場経済化によって支持率が低下し、そして持病の心臓病の手術による過労がたたり、政権に不安定さが目立つようになる。1996年大統領選挙では、ソ連と共に解体していたロシア連邦共産党ゲンナジー・ジュガーノフ議長に肉薄され、大苦戦。劣勢を逆転させたい一念でアメリカから選挙キャンペーンのプロを呼び、又、テレビカメラの前で若者に混じりダンスを披露したが、その後心臓発作を起こしたという。又、ボリス・ベレゾフスキーウラジーミル・グシンスキーなど経済界の巨頭から巨額の選挙資金を捻出させ、また第三の候補・アレクサンドル・レベジ退役大将を取り込むなどしてなり振りかまわぬ選挙戦を展開し、そのかいあってか結果的に再選を果たした。ちなみに、このダンスを収めた写真は翌年の1997年ピューリツァー賞を受賞している。また、このころから(各国で報じられて有名な)「酔っ払い」あるいは「白熊エリツィン」と呼ばれるようになった。

相次ぐ首相交代[編集]

1998年5月、経済復興を実現するには力不足だとして、ヴィクトル・チェルノムイルジン首相を解任した。同首相は、5年間にわたる長期首相だったが、一説によると病身の大統領に代わり副大統領然として振舞っていたこと、あるいは経済界との腐れ縁を大統領が嫌っての解任とも言われる。後任には35歳のセルゲイ・キリエンコ第一副首相兼燃料エネルギー相が就任したが、8月17日ロシア金融危機が発生。短期国債の取引を停止し、事実上の債務超過に陥った。就任直後の出来事だったが、責任をとらされ、解任された。キリエンコに替わって首相に任命されたのは諜報機関KGB出身のエフゲニー・プリマコフであった。プリマコフは、ゴルバチョフ時代にソ連共産党政治局員候補で、ソ連崩壊後のロシアで対外情報庁(SVR)長官や外相を歴任した実力者であった。やわな若手改革派ではこの危機を乗りきれないと考えられたのであろう。プリマコフ首相は、大統領よりも、議会重視のスタンスを打ち出し、共産党からも閣僚を一本釣りの形で起用し、議会の支持に依拠する珍しい内閣であった。ロシアは、金融危機を乗り切るため、国際通貨基金 (IMF) に支援を要請、金融危機を沈静化させた。また、エリツィン大統領周辺の「ファミリー」「オリガルヒ」と呼ばれる側近グループの排除に乗り出し、スクラトフ検事総長に命じて汚職摘発を開始した。これによってプリマコフ首相の支持率は上昇したが、一方これに危機感を抱いた大統領によって1999年5月解任された。後任のセルゲイ・ステパーシン首相も僅か3ヶ月で解職されるなど、首相を短期間で次々に挿げ替え、自らの権力を維持するためになりふり構わぬようにも見える行動を繰り返した。

政権移譲と晩年[編集]

1999年12月31日にはテレビ演説を行い、電撃辞任を発表。ステパーシンの後任として、当時首相だったウラジーミル・プーチンを後継の大統領に指名した。その後表舞台からは姿を消し、悠々自適の年金生活を送ったという。2006年6月3日パリで開催されていた全仏オープン7日目を夫妻で観戦し、シャラポワから帽子にサインしてもらう姿が撮られている。くしくもこれが最後の公の姿となった。

2007年4月23日、長年の心臓疾患による多臓器不全(一部報道では心血管不全症とも)により死去。76歳だった。4月25日救世主キリスト大聖堂にて国葬が行われ、プーチンはこの日を「国民服喪の日」とすることを宣言した。葬儀後、遺体はノボデビッチ修道院の墓地に埋葬された。

著書[編集]

外部リンク[編集]


先代:
ミハイル・ゴルバチョフ
ロシア連邦大統領
1991年 - 1999年
次代:
ウラジーミル・プーチン
先代:
オレグ・ロボフ
ロシア連邦首相
1991年 - 1992年
次代:
エゴール・ガイダル