フレンチ・インディアン戦争

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概要[編集]

フレンチ・インディアン戦争(英:French and Indian War, 1755年 - 1763年)は、欧州の七年戦争1756年 - 1763年)に呼応して英仏間で争われた北米大陸での植民地戦争。インディアンと同盟を結んだフランス軍を相手にイギリス人が戦ったところからこの呼称がある。従来の英仏間で起こった戦争が欧州から植民地へと波及したのとは異なり、この戦争は、欧州の戦争にさきだって植民地で衝突が起こったことで始まった。戦況は一進一退だったが、後半に入って本国から応援部隊が到着した英側が有利となり、1760年に仏側が降伏して戦闘は終了した。この戦争の結果、第2次百年戦争と呼ばれた英仏間の植民地獲得競争においてイギリスの優位がほぼ固まり、敗れたフランスは1763年パリ条約の結果、北米大陸からほぼ全面的に撤退することとなった。

発端と経過[編集]

農地を西方に広げようとするイギリス勢力と、毛皮の交易路を拡大しようとするフランス勢力(フランス領カナダヌーベルフランス)がオハイオ川流域で衝突した。1754年夏にフランス勢力とヴァージニア民兵隊の間で小競り合いがはじまり、1755年6月北米沖で英艦隊が仏艦隊を拿捕したことにより決定的な争いとなった。同年7月オハイオ川流域のデュケーヌ砦(デュケイン砦、現在のピッツバーグ)を目指すブラドック将軍率いる英軍が待ち伏せたフランス軍とインディアンの連合軍によって壊滅させられた。これによって当初はフランス軍に有利な展開となった。しかし1756年7月に欧州で七年戦争が起こると、1757年6月に英本国で第一大蔵卿デボンシァ公のもとチャタム伯(大ピット)が国務大臣に就任して体制を建て直し、反撃に出た。

1758年にはセントローレンス湾の入り口を押さえるフランス領のルイスブルグ要塞が陥落し、オハイオ川流域のデュケーヌ砦もイギリス軍に占領された。ニューヨークからヌーベルフランスの首府ケベック・シティを目指したウルフ将軍率いる英軍は、迎撃したカナダ軍総司令官モンカルム侯率いる仏軍とアブラハム平原で激突し、両将軍とも戦死したが、三ヶ月におよぶ攻防のすえ1759年9月18日にはケベック・シティが陥落してフランス側の大敗に決した。1760年にはモントリオールも陥落してフランスが降伏し、フランス領カナダの拠点はすべて壊滅して全戦闘は終了した。

戦後処理[編集]

1763年2月10日に調印されたパリ条約でフランスはカナダを、スペインはフロリダを正式にイギリスに割譲し、また、フランスは仏領ルイジアナのうちミシシッピ川以西を同盟国スペインの労に報いるため割譲、さらに同川以東のルイジアナは戦勝国イギリスに割譲した。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げた。

なお、パリ条約締結後、カナダ東部のアカディア地方を追われたフランス系住民にはニューオーリンズ一帯に移住した者が多く、独自のケイジャン文化を育てた。また、カナダに隣接するメイン州1820年マサチューセッツ州より分離)北部のセント・ジョン渓谷に移り住んだ者もいた。こののちカナダはイギリス領となったものの、そこにすむフランス系カナダ人は、民族的自覚を発展させ、イギリス帝国の支配に対する抵抗は続いた。

イギリスはパリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナ地方を獲得したが、1763年、イギリス王ジョージ3世は新たに英領となったルイジアナを英国の直轄地として、アパラチア山脈に設けられた国王宣言線よりも西側に13植民地の人々が入植することを禁止した。

後世への影響[編集]

1.英領アメリカ13植民地(以下「13植民地」)の人々は国王宣言線(上述)に激しく反発した。さらに、この戦争の戦費を植民地人に負担させるため、英本国政府は13植民地に対し、砂糖法を施行し(1764年)、さらに印紙法を施行しようとした(1765年)。このため、英本国と13植民地との間には深刻な対立感情が生まれた。

2.北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたことによって、イギリス領の植民地が本国からの安全保障を必要としなくなってしまった。それが直後のアメリカ独立戦争を促した側面がある。イギリスは、13植民地を安全にしたがために、かえってそこを失ってしまうという皮肉な結果をもたらした。

3.ルイ15世統治晩年のフランスでは、オーストリア継承戦争からこの戦争および七年戦争の戦費と、ヴェルサイユ宮殿での豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。ルイ16世の時代に入るとさらにアメリカ独立戦争支援のための出費もあったが、イギリスにくらべフランスは慢性的に戦費調達能力が低かったうえに、この間フランスは新領土を獲得していないため財政赤字は累積した。そして、こうした逼迫した財政状況を打開するため新税を導入しようとして全国三部会が招集したことがフランス革命勃発のきっかけとなっている。

4.この戦争でフランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、植民地貿易の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは1760年代以降のイギリス産業革命を促した、数ある要因のなかのひとつになっている。

エピソード[編集]

1.アメリカ民謡『ヤンキードゥードル』(日本では『アルプス一万尺』の名で知られる)は、1755年、この戦争で英軍を応援するために集まった13植民地の兵が風変わりで間抜けな格好をしているということで、それを揶揄するためイギリスの軍医がつくった曲だとされている。しかし、植民地人はこの歌が好きで、のちのアメリカ独立戦争の際にもよく愛唱された。

2.のちにアメリカ独立軍総司令官となるジョージ・ワシントンが初陣を飾ったのが、この戦争である。このときヴァージニア民兵隊を率いたワシントンは1754年夏に宣戦布告なしにフランスを攻撃し、大敗している。デュケーヌ砦遠征の際にはブラドックの幕僚となるが、ブラドックはインディアン相手に英国流の戦い方にこだわり、ワシントンがいくら「ここはアメリカだからその戦法では負ける」と進言しても聞き入れることなく、モノンガヒーラ川で不意打ちに遭い敗北を喫している。このときワシントンはダンバーとともに残った兵士たちを導いて冷静に基地まで連れ帰っている。

3.ベンジャミン・フランクリンはデュケーヌ砦遠征隊の資材の一部を調達している。また、この遠征にはダニエル・ブーンも加わっていた。

4.のちに、イギリスはデュケーヌ砦のあった地をチャタム伯(大ピット)にちなんで、ピッツバーグ(「ピットの砦」を意味する)と改名する。こんにち鉄鋼都市として有名なペンシルヴェニア州の大都市である。

5.戦争終結後の1764年、スペイン領ルイジアナとなったミシシッピ川西岸にセントルイスの町がフランス系住民によって建設された。町の名はフランス王ルイ9世にちなむ。

関連項目[編集]

リンク[編集]

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