日本建設協会

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日本建設協会(にほんけんせつきょうかい)は、1940年1月6日に、左翼転向者の尾崎陞川崎堅雄や、岡本清一らによって創立された翼賛団体。全国に19の連絡地方団体を組織して転向者を集め、演説会や座談会を開催して、国体や社会改革の方策に関する啓蒙・宣伝活動を行った。同年8月に結成された皇道翼賛青年聯盟に尾崎・川崎が役員として参加。同年9月下旬から『日本建設新聞』を発行して影響力の拡大につとめ、機関紙発行部数が5千部に達するようになったが、1941年3月以降、警視庁から治安上放置できないとして内々に解散を促され、同年4月13日に解散した。

沿革[編集]

結成[編集]

緋田工らとともに日本国体研究所を設立した左翼転向者の尾崎陞川崎堅雄らは、組織の拡大・強化を志向。慎重な姿勢を示していた緋田と訣別し、1940年1月6日に、岡本清一らとともに「日本建設協会」を創立した。創立と前後して、全国各地の転向者により、19の連絡地方団体が設立された。[1]

本部は機関紙『日本建設』を発行し、国体に関する理論的研究や、社会革新の方策を発表し、また各地で演説会・座談会などを開催して啓蒙・宣伝につとめた[1]。転向者を集めた組織である点が特徴で、以前の日本共産党員、全協全農全会派全国水平社の関係者が多く所属していた[1][2]

会合や部会(勉強会)は新宿にあった尾崎の自宅で行われていた[4]

裏事情[編集]

同年2月末から3月初旬に、新宿のモナミ六本木出雲大社の分社で、岡本と日高輝忠内山若枝妹尾義郎らが会合して、日高・内山らが結成しようとしていた新団体(皇道翼賛青年聯盟?)に日本建設協会が合流することが話し合われていた[6]

1940年3月29日夜、同会で山崎靖純小川郷太郎が中国の情勢について講話をし、表面的には汪兆銘政権樹立で東亜協同体論に期待が持たれているが、実情としては日本に対する反撃が力を増し、日本軍は攻撃力を弱めているといった事情が報告されていた[7]

展開[編集]

1940年7月20・21日に、本部で「地方代表者懇談会」を開催し、新体制問題への対応と協会の組織方針などを話し合った[1]

同年8月下旬、5.15事件の関係者・三上卓を中心として結成された皇道翼賛青年聯盟準備会に、尾崎・川崎が役員として加盟した[1]

公安調査庁 (1965 )によると、この頃、小島玄之、岡本らは、尾崎・川崎らと意見が合わず、事実上の脱会状態となった。

同年9月下旬から『日本建設新聞』を発行し、政治的指導体の結成を目標とし、生活面・生産面の建設活動と革新団体の統合・統一を当面の主要任務に掲げて、影響力の拡大につとめた[1]

1941年1月14・15日に本部で開催された常任理事会において、金融財閥の影響力によって、観念右翼が政治に進出し、軍政の危険が醸成されているとして、東京・大阪・北九州などの重工業炭鉱地帯および農村における組織強化の活動方針と組織編成などを決定した[1]

その後、支部あるいは道友会の組織、革新団体との連絡などについて積極的な運動を展開し、機関紙発行部数も5,000部に達する状況となった[1]

解散[編集]

1941年3月下旬以降、警視庁は、同協会の指導原理・運動方針・構成メンバーなどについて検討し、

  • 東亜協同体」を基調とした「協同体的社会建設」を目的として、反資本主義的政治勢力を広汎に結集することを企図している
  • 構成メンバーの大部分が共産主義運動の前歴をもち、中には転向したかどうか不明の者もいる
  • 団体の運動は、国民思想を動揺と混乱におとしいれ、国内の対立、相剋を激化させるおそれが多分にある

ことから、重大時局下に会の存在を治安上放置すべきでない、と判断して、解散を促した[1]

同年4月13日に本部で常任理事会が開催され、解散を決定。解体声明書を発表して解散した。[1]

評価[編集]

  • 公安調査庁 (1965 )は、その活動は大体において啓蒙・運動の域を出ないもので、当初企図していたような組織の伸張をみるに至らなかった、と評している。
  • 三戸 (1999 70)は、実際に行った運動に「これだ」というものは特に浮かんでこない、政治・経済・労働・農業・農村などの分野別に勉強会を持っていた。太平洋戦争を“聖戦”として肯定する点に納得いかなかった、と評している。

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]